2024年公開の『鬼滅の刃 無限城編』第一章。
映画館を出た観客の声は、驚くほど二極化していました。
「映像美が圧巻で鳥肌が立った」
「猗窩座の過去に涙した」
──そんな絶賛の声がある一方で、
「テンポが悪くて眠くなった」
「回想が長すぎて冗長」
といった批判も飛び交っています。
同じ映像を見ていながら、なぜここまで評価が分かれるのか?
その答えは、“映像美”と“物語構成”という二つの美学のねじれにありました。
本記事では、そのせめぎ合いが生んだ「絶賛」と「酷評」の理由を、
批評的な視点から解き明かしていきます。
『無限城編 第一章』の全体評価まとめ
レビューサイト Filmarks では、平均スコアは★4.1前後と高水準。
数字だけ見れば「成功作」と言えますが──コメントを覗くと、評価は見事に二つへ割れていました。
- 高評価:「映像が綺麗すぎて鳥肌」「猗窩座の過去に涙した」「劇場で観てよかった」
- 低評価:「テンポが遅い」「回想が長すぎて戦闘の迫力が削がれた」「映画としては冗長」
つまりこの映画は、観客に“二つの体験”を同時に与えてしまったのです。
「心を震わせる映像体験」と、
「物語進行への違和感」。
その矛盾こそが、無限城編の宿命だったのです。
ある人にとっては「今年一番の映画」となり、別の人にとっては「退屈な時間」となる。
──なぜ、同じスクリーンを前にしてここまで違う感想が生まれるのか?
この評価の分岐点を読み解くことは、作品そのものの挑戦を浮かび上がらせ、
そして「観客が映画に何を求めているのか」という問いに直結していくのです。
絶賛されたポイントは“映像美”と“音楽”
無限城の落下シーンがもたらす圧倒的没入感
公開直後から最も多くの賞賛を集めたのが、無限城を落下する炭治郎たちのシーンです。
「まるでアトラクションに乗っているよう」
「画面に引き込まれる」
そんな感想が目立ち、観客はアニメーションの新境地を体感したと言えるでしょう。
あの数秒間、僕らは観客席から解き放たれ、重力に逆らえない“落下者”として作品に取り込まれたのです。
手に汗握るというより、魂ごと宙づりにされた感覚──これこそ大スクリーンだからこそ成立した体験でした。
劇伴音楽と声優演技が観客を泣かせた理由
梶浦由記・椎名豪による劇伴音楽、そして声優陣の熱演も絶賛の要因です。
特に猗窩座と恋雪の回想では、音楽の静と動が観客の涙腺を直撃しました。
「演技と音楽に感情を引きずられた」という声が多く、音響と演技のシンクロが強烈な体験を生み出したのです。
気づけば、僕らは猗窩座の拳ではなく、その心の震えに殴られていたのかもしれません。
涙はキャラクターのために流れるのではなく、
音と声が僕ら自身の過去の記憶を呼び起こしたときに溢れる。
──そんな体験を観客は味わっていました。
映画館で観る価値があると断言できる要素
一部ファンは「配信で十分では?」と懐疑的でした。
しかし結果的には、「映画館で観て正解だった」という声が多数を占めています。
スクリーンサイズと音響環境が揃う劇場だからこそ、無限城の圧倒的スケールと没入感が成立していたのです。
映像に包まれ、音に抱きしめられる──それは“物語に住まう体験”と呼べるものでした。
家庭のモニターでは決して再現できない振動。
視界を覆い尽くす城の構造美。
それはまるで観客が無限城の“住人”にされてしまったかのような錯覚を覚えるほどでした。
批判の中心は“構成”と“テンポ感”
一方で、『無限城編 第一章』に対する批判の多くは、構成のテンポ感に集中しています。
美しさに酔いしれた直後に「長い」と感じる──その揺らぎこそ、この作品が抱える最大の矛盾でした。
猗窩座の回想が長すぎる?観客の分かれた反応
最大の議論を呼んだのは、猗窩座の人間時代の回想です。
彼の過去を丁寧に描いたことで、観客は「ただの敵」ではなく、
悲劇を背負ったひとりの人間として彼を理解できるようになりました。
しかし──戦闘の真っ只中で挿入される長尺の回想は、
一部観客にとって「テンポを崩す原因」ともなったのです。
“戦いを観たい人”と“心の奥に触れたい人”。
二つの欲望が、この場面で真正面から衝突してしまったのでした。
戦闘の緊張感と回想シーンのバランス問題
「戦闘シーンの盛り上がりが途切れる」「時間配分が悪い」といった意見も目立ちました。
アクションの緊張感は、持続させるほど快楽が高まるもの。
しかし回想を挟むことでその緊張はリセットされ、戦闘のリズムが乱れてしまうのです。
それでも──「回想があったからこそ、猗窩座の拳の重みを感じられた」という声もありました。
テンポを犠牲にしてでも描かれた“彼の人間性”に、救われた観客も少なくなかったのです。
テンポが遅いと感じた観客の心理
物語の丁寧さを「感動的」と受け取るか、「冗長」と受け取るか──それは観客のスタンスによって異なります。
原作ファンは「猗窩座の背景を描いてくれて嬉しい」と感じ、
映画ファンは「時間を長く感じた」と受け取りやすい。
言い換えれば、この作品は“速さ”ではなく“重さ”を選んだのです。
だからこそ、退屈と感動が同じ場面に同居してしまったのでしょう。
君はどう受け取っただろう?
「戦いの緊迫感」か、それとも「ひとりの人間の物語」か。
TVアニメ文法と劇場映画文法の違い
『無限城編 第一章』を巡る評価の分裂には、TVアニメと劇場映画の構成の違いが大きく関わっています。
この作品はまさに「テレビ的語り口」と「映画的リズム」の間に引き裂かれたのです。
同じ“時間”であっても、テレビと映画ではその重さも速さもまったく異なります。
ここを理解することが、賛否を解き明かす鍵になるでしょう。
TVアニメが得意とする「回想の積み重ね」
TVシリーズでは、各話ごとにキャラクターの過去や動機を掘り下げ、視聴者に感情移入させます。
1週間ごとの放送ペースでは、この“引き”が効果的に働きます。
「次回が待ちきれない」──その感覚こそ、テレビアニメ最大の武器でした。
時間が小刻みに切り取られるからこそ、回想の濃度が物語を支える土台となっていたのです。
映画文法に必要な「三幕構成」とテンポの集中
一方で劇場映画は、90〜120分という限られた時間の中で、
盛り上がりを一点に集約し、余韻で締める構成を取ります。
戦闘の途中で長尺の回想を挟めば、観客は「クライマックスを待たされている」と感じてしまう。
映画は“溜め”ではなく“一気の解放”を求めるフォーマットだからです。
座席に固定され、物語から逃げ場がない──
だからこそテンポの乱れは、TV以上に強烈に体感されるのです。
『無限城編』が直面した“構成ギャップ”とは
つまり『無限城編 第一章』は、TVシリーズ的な丁寧な掘り下げを劇場版に持ち込んだことで、
ファンには「感動的」と映り、映画ファンには「冗長」と映るギャップを生んだと言えます。
このすれ違いは偶然ではなく、
「どこまでキャラを描き切るか」という創作陣の覚悟が招いた必然でした。
言い換えれば、本作は“テレビの時間”と“映画の時間”の狭間に立つ、極めて稀有な作品なのです。
評価が分かれるのは必然か?“鬼滅”の宿命
鬼滅の刃という作品の魅力は、キャラクターの人間ドラマと、圧倒的なアクション演出の両立にあります。
しかし両方を同時に極めようとすると、どうしてもテンポに歪みが生まれるのです。
その歪みは「欠点」ではありません。
むしろ“鬼滅”という物語が背負わざるを得ない宿命そのものでした。
キャラの人間ドラマとアクションの両立
猗窩座の回想が長くても、それを支持する声が強いのは「鬼滅」が単なるバトルものではなく、
人間の業や悲しみを描く作品だからです。
鬼である前に“ひとりの人間”だった彼らの物語を見届けたい──。
その欲求に応える限り、戦闘のテンポは犠牲になる。
制作陣はそのジレンマを知りながら、
あえて人間ドラマを選び取ったのです。
原作ファンにとっての忠実さ、映画ファンにとっての冗長さ
原作ファンは「原作に忠実で満足」と感じる一方、
映画を一本の作品として観る層は「長すぎる」と不満を抱きました。
二つの期待値の狭間に立たされた『無限城編 第一章』は、
誰かを歓喜させ、誰かを失望させる宿命を背負っていたのです。
その分裂した評価は、むしろ作品が“両極の欲望”を同時に掴んでいた証でもあります。
なぜ「美しいのに退屈」という矛盾が生まれるのか
映像や演出が圧倒的に美しいからこそ、テンポの停滞が際立ってしまう。
つまり「退屈」という感想は、裏を返せば「美しさを極限まで描いた結果」でもあるのです。
観客を“泣かせる”と同時に“待たせる”──。
この矛盾を抱きしめることこそ、『鬼滅』が挑んだリスクであり、物語の真骨頂なのかもしれません。
結論|美しさと退屈は両立するのか
『無限城編 第一章』は、映像美と音楽においてシリーズ最高峰の完成度を誇りながら、
構成とテンポをめぐって賛否が分かれる結果となりました。
その評価の揺らぎは、失敗ではなく
「鬼滅の刃」という作品が大切にしてきた人間ドラマと映像体験の両立の証拠でもあります。
言い換えれば、この映画は──
“美しさを描ききる覚悟”と引き換えに、“退屈”というリスクを抱え込んだ
そして観客はその狭間で揺さぶられ、
自分の心の価値観を突きつけられたのです。
君はどうだろう?
映像の圧倒に涙したか、それともテンポの停滞にため息をついたか。
──どちらの答えも、この物語が僕らに投げかけた問いの一部なのです。
FAQ|『無限城編 第一章』よくある質問
- Q. 原作未読でも楽しめますか?
- 映像美と演出だけでも十分に楽しめます。ただしキャラクターの背景や関係性を理解していると、より深く感動できるでしょう。
- Q. 映画館で観る価値はありますか?
- はい。特に無限城の落下シーンや劇伴音楽は映画館の大スクリーンと音響でこそ真価を発揮します。配信では味わえない没入感があります。
- Q. なぜ退屈と感じる人がいるのですか?
- TVシリーズ的な「回想を丁寧に描く構成」を劇場映画に持ち込んだため、映画の三幕構成に慣れた観客にはテンポが遅く感じられるのです。
コメント